「生の歓びを描くひと:近藤亜樹」山内宏泰 レコレコ!

~RECOrd of RECOmmendations オススメの記録~

企画/ライティング:山内宏泰

本企画ではライター山内宏泰が見つけた、「これぞ!」なアート・カルチャーブックの数々。全霊を傾けて、推します。

今回はアーティストの近藤亜樹さんの2019〜20年にかけて描かれた作品群の、美麗でカラフルな画集を紹介します。

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 「生の歓びを描くひと:近藤亜樹」 

 人はなぜ絵を描くのか。

 いまどき記録や記念、備忘ならいつでもスマホがしてくれる。大好きな人の姿や楽しい瞬間、すてきな光景は各自メモリーに溜め放題だ。

 そんな時代にも人は、手間暇かけて絵を描いたり眺めたりをやめない。いったいなぜ?

 こたえは、近藤亜樹の人と作品が教えてくれる。

 描くこと、そしてそれを見ること自体が歓びだからだ。

 眼に映るもの・眼に見えないもの双方にかたちを与えていく、それによって世界を肯定したいからだ。

「ここにあるしあわせ」(シュウゴアーツ)展示風景 ©Aki Kondo, courtesy of ShugoArts

筆を握ると血が騒ぐ

 近藤亜樹は二〇一〇年代初頭から、絵画を発表するようになった。以来、たゆまず描き続けている。

 札幌で生まれ、幼少のころから描くことが好きだったので、長じて東北芸術工科大学へ進学。大学院在学中に東日本大震災を経験し、卒業後は震災をテーマにした絵画を多く描いてきた。

  二〇一五年には、実写と絵画アニメーションを融合させた短編映画『HIKARI』を発表。新しい表現形態をつくり上げた。

 作品を生み出すペースは、いつも驚異的だ。一枚ずつに込める熱量も、半端じゃない。ひと筆ずつに意思と感情がしっかり乗っていて、全精力が描くことに傾けられていると知れる。

「描くことは日常であり、生きることそのもの」

 本人は、そう言う。 

「息を吸って吐くとか、植物が光合成して二酸化炭素を酸素に変換し続けているみたいに、私にとってはごく当たり前の日常として描くという営みがあります。

 描いているときのことは、ほぼ何も覚えていません。頭で考えるというより、何かを感じながら身体を動かしている」

近藤亜樹《ただそこにあるという幸せ》 ©Aki Kondo, courtesy of ShugoArts

 描きたいものも、絶えず頭に浮かんでくる。

「目に見えている外の世界をそのまま模写するわけじゃない。もっと、事物の根っこのほうにあるイメージを探り当てようとしています。

 たとえばそこに花が咲いていてきれいだなと思ったら、花弁を描くのではなくて植物が生まれ出てきた種子のことに思いを馳せる。さらにはその種子を発芽させる力となったであろう土壌に目が向き、結果的にはその土だけを絵に描くことになったりする。描こうとするものはいつもそうした根源にある何かです」

 事物を成り立たせる根源にまで遡って、一枚ずつの絵を描く。それを繰り返すなんて、相当に疲弊しそうだ。

「ひとつの絵を描くと自分の中が空っぽになる感覚はあります。そうなったらいったん栄養というか、絵の素になるものを取り込む期間が必要。でもすこし時間が経てば、ちゃんとまた自分の中にどんどん力が溜まってきます。

 自分の中に描きたいものが満ちてくると、もうそれを吐き出さずにはいられなくなる。前に英国で滞在制作していたときには、カフェにいるときそうした状態になって居ても立っても居られず、隣に座っているおじさんが読んでいた新聞を譲り受けてそこに描いたことも。

 自分の家にいて描く気持ちが満ち満ちたのに、たまたまキャンバスが手元に一枚もなかったときは、家じゅうのふすまを外してそこに描きました」

 だれもがものを食べて活力源としているように、近藤は描くことを自身の源にしている様子。では、ある一枚を描き始める動機はどう生じるのか。近藤亜樹の「ひと筆め」はどこからやってくるのか。

「どうなんでしょう、はっきりとはわからない。描いているときは言葉のない世界にいて、自分が過去に属しているのか未来へ飛んで行っているのかもわからなくなる。

 筆を握り絵を描くとき、感情のバロメーターがぐっと振り切れる。身体の中の血が騒ぎ、ほとばしるような鮮烈な体験をキャンバスに刻まずにはいられなくなる。

 これはたしかなことなので、筆を握ることがはじまりの合図になっているかもしれない」

 

描くことは生きること

 ホモ・サピエンス=賢い人。ホモ・ルーデンス=遊ぶ人。ホモ・ファーベル=つくる人。

 ヒトを指し示すための定義としては、これまでいろんな言葉が提唱されてきた。どれも一理あるけれど、近藤亜樹のあゆみを見ていると、人は本来的に表現せずにはいられない生きものなのではと思えてくる。

 人類全般に敷衍できるとは言い切れぬけれど、すくなくとも彼女に限ってはまちがいなく「表す人」と定義ができそう。

 そう、どんなときも彼女の創作の手が止まることはないのだ。

 たとえば二〇一八年九月にも、近藤亜樹はシュウゴアーツで個展「あの日を待つ 明日を待つ 今日」を開いた。花、花瓶、食卓、大きい人や小さい人の肖像。相変わらずの力感溢れる強烈なイメージの数々が会場を埋めていた。

近藤亜樹《母の顔》 ©Aki Kondo, courtesy of ShugoArts

「過去と未来の記憶が今と混ざって」現れたという作品群。これらを描いたときの近藤の環境は苛烈だった。

「妊娠中の大きく膨らんだお腹を抱えながら地べたに座って描きました。お腹の中に人間が入っているので、肉体的にも体力的にも違うので長時間は描けませんが、感情は激しく動いていましたし、いつもより描ける量が少ないので一枚ずつが大きく重く感じました」

 そう、当時の彼女は自分自身の中に生命を宿していた。その年に入ってすぐ結婚し、妊娠していることがわかったのだ。

 身に起きたのは、それだけではなかった。入籍の二週間後、最愛の夫が単身向かったインドで突然死に襲われた。

 そんな中で筆を持つことの心境を、個展に際して彼女はこう語っていた。

「二つの命の重さの意味を感じずにはいられませんし、また自分の生死についても深刻に考えました。世界が180度かわり、正直どこに希望を持っていけばいいのかわからない悲しみに毎日泣いて過ごしましたが、数ヶ月経って微かに感じはじめた胎動に生きる勇気をもらいました。

 そして生まれてくること、生まれてきたこと、生まれてきたからこそ見ることのできた世界全てがあるから今があると実感します。

 夫を亡くしたあとしばらくは、自分も生きているのか死んでいるのかわからないような状態に陥っていました。それなのに、自分が抱きかかえている赤ん坊は『生のかたまり』そのものでした。そんな時間を過ごしているうち、生と死についての見方が自分の中で大きく変わりました。

 私にとって生きることと描くことは直接つながっていますから、絵にももちろん影響が出ます。

 十月十日、人間を胎内で育てること。愛するひととの出会い。いつかは訪れる死。命がけで母が子を産み落とすこと。そして生まれてきた世界で体験する沢山の奇跡。全てが私の今なんです。今を生きることがどういうことか考えた時、やっぱり私にとって今を記憶する絵が、私個人としての一番リアルなものだった。想像も現実もそれぞれの重さを持っているんだと思います。

 だから赤ん坊の産声のように、空に響き渡るような声で絵を描きたい、今思うのはただそれだけです。

 描くことって、死んでしまったらできないですよね、この世では。心がぐにゃっと掴まれるくらいグッとくる絵に出会いたい。毎日そう思って描いています」

 

これほど明るくまばゆい画面と本がかつてあったか

 このところは近藤亜樹の絵が、ますます明るくまばゆいものになっている気がしてならない。

 二〇一九~二〇年にかけて描かれた作品群は、初の作品集『ここにあるしあわせ』としてまとめられた。

 パンケーキにリンゴ、コップやオモチャ。母子の肖像、そしていろんな種類の花。いつも目の前に当たり前にあるものが、一つひとつすこぶる明るく描かれる。そして驚くほどの存在感を放つ。そのものがそこにあると確認できただけで、これほど満たされた気分になるなんて。書名の通りの「ここにあるしあわせ」が、まさにここにある。

 このシリーズは、自分の記憶をたどりながら描いた絵が多いという。

「描いていたのは札幌の実家で、6畳の自室で制作していたら、幼い頃の宝物がいくつか押し入れや引き出しから見つかった。

 それらの物や匂いにふれると、忘れていた記憶がブワっと蘇ってきたんですね。なんだかホッとしたというか、自分を取り戻せたというのか、とにかく安心したのを覚えています。目をつぶって暗闇の中で何かを確かめるように、ゆっくり描いていきました」

 描かれているモチーフは多岐にわたる。それらはどこからきたのだろう?

「描いているときにうまく思い出せたもの。なぜこれを思い出したのか、そこにはきっと理由があるだろうと思いながら描いてました。いつも描き終える少し前に、思い出したかった感情の正体に気づく毎日でしたね」

 とりわけ印象に残るのは、繰り返し出てくる母子像。そして、花の数々だ。

「ここにあるしあわせ」(シュウゴアーツ)展示風景 ©Aki Kondo, courtesy of ShugoArts

「私は自分の実体験や心に響いたことしか描いたり話したりすることができないので、私に関わる人を描くしかない。とはいっても、この母子像で私の母や子はこうなんですよと示したいわけじゃありません。母子像を描くことによってしか表せない感情が自分の中にあって、それを描きました。

 たしかにこれらの母子像は私と息子をモデルに描いたんですけど、我が子を抱きながら鏡に映る自分の姿を見ていると、なぜか『ああお母さんは、私をこういう気持ちで育てたんだな』というのが分かる気がした。そして抱き抱えられている息子に目を移すと、小さい頃の自分の気持ちを思い出して不思議な気持ちになりました。母は子にとって偉大な存在ですけど、母にとって子どもはもっと偉大な存在です。

 母子像というのは、お互いが生きる光なんだな。お互いに偉大な存在のおかげで生かされているんだな。誰にとっても、そういう偉大な、温かいでっかい命でつながっている存在がいるんだなと思いました。そういうことを表したくて、母子像を描いたんです。

 花のほうは、記憶や思い出にある花もあれば、実際に目の前にさっきまであった花を描いたものもあります。

 ただどちらにしても、花そのものを描きたいというよりは、花の姿を借りて違う何かを描いていることのほうが多い気がします。

 生きている人に寄り添う花も、もう亡き人に捧げる花も、誰のためでもなくただ野原やコンクリートの間から咲く花も、それぞれ美しいなと見ていると感じます。美しいって、強くてすばらしいことだなとも思う。花は私にいろんなことを教えてくれる存在です。

 そういえば子どもが生まれてから花をもらうこともあって、おめでとうの花もなんだか誇らしく凛としていて、いいものだと思いました。

 花はしゃべったりするわけじゃないけれど、そこにあって寄り添ってくれるだけで力を与えてもらえることを実感しました。私の絵も、そういう存在でありたい」

 近藤亜樹作品が発する明るさは、作品集という印刷物になっても減じることがない。彼女の絵が持つ明るさや生命感をそのまま掬い取り紙面に定着させるために、おそらくは無数の印刷・製本・編集上の工夫が為されているにちがいない。

 作品集にはまた、絵の細部を大写しにしたページが随所に挟み込まれている。

 近藤亜樹の絵画はかなりの「厚塗り」である。すこし角度をつけて眺めると、絵具が極度に盛り上がっているのが分かる。部分にぐっと寄ったページでは、紙面上でもその立体感と物質感をしかと確認できるわけだ。

近藤亜樹《よろこびの花》 ©Aki Kondo, courtesy of ShugoArts

 細部を見てまた全体像に戻り、ページを繰るごと続々と現れる明るいイメージに耽溺する。近藤亜樹の作品集を開くというのは単なる読書という枠を超え、めくるめく体験を味わう行為だ。どのページにも「生の震え」や「生の歓び」があって、作品集の全体からは「生命の根源」がたしかにそこにあることを感じ取れるはずだから。

 この本を身近に置いた人はことあるごと、何かに衝き動かされてページを覗き込みたくなるにちがいない。ちょうど近藤亜樹が、いついかなるときも描くことをやめないのと同じように。

「そうですね、私は生きているあいだ絵で人に寄り添いたい。光を描いていたいのです」

 これからも気持ちが虹色になるような、いい絵を描き続けたいです」

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この文章は、

山内宏泰が近藤亜樹「ここにあるしあわせ」のために書き下ろしたものです。

近藤亜樹「ここにあるしあわせ」はこちらからご購入いただけます。